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日本の森林は誰の物? (1)一度目の国有化 645年に、「大化の改新」という政治イベントがありました。この時、全ての土地と人民は、朝廷の所有物=国有ということになりました。それまで、皇族や豪族など有力者が個々で持っていた財産(土地と人)を、まとめたということです。財産を奪われた豪族は貴族となり、政治に参加する形で給与が朝廷から支払われました。そして、農地が全て国有地となったため、人民に土地を貸しながら、生産量の一部を、税金を納めることになったのです。そのほかにも、無償労働など有り、重税から逃げ出す農民はたくさんいたそうです。 |
(2)私有地の登場 その後、人口増加に伴い、国から農民に貸していた田畑が不足してくると、自主的に開発したところは、私有地にして良いという政策となります。723年には開墾者の孫までの期限付き私有地、743年には、無期限の私有地にして良い事になりました。結果、貴族や宗教関係者等資金を持っていた人々は、税が払えなくなった逃亡者を確保して原野を開墾し、自分達の私有地を増やしていきます。この結果、奈良、京都、大阪周辺は私有地が増えていきます。湿地帯や氾濫原などが開墾地となり、私有地としての農地に変わっていったのでした。 また、農業技術に優れた農家は、地域の指導者になる一方、貧しい農民の税を負担したりすることで、農地や労働力の提供を受けるなど規模を拡大していきます。ただし、開墾出来る土地は限られています。このため、ある一定規模の傾斜地までは開墾するのですが、気象災害の多い日本では、一定の傾斜地以上の開墾は、大雨で土砂崩れになります。せっかく作った農地を放棄しなくてはなりません。このため、山麓では、開墾しても焼き畑移動耕作でした。数年後は二次林に戻ります。場所によっては、土地を階段状にして棚田にしたところもあります。 煮炊きをする、暖を採るため、燃材が不可欠です。カシ類(Quercus spp. 等)は、萌芽更新するため、伐っても伐っても次々と更新されるため、生長量以上伐らない森林経営が始まります。一定の太さになってから伐る天然林施業です。木の太さで地力の回復具合が分かるためです。 また、農業の維持のため、枯れ葉などの腐葉土も必要でした。農地に枯草などの腐葉土をすき込む必要があるためです。それらは、地域のルールで利用してきました。人口密度によって、自由に採取して良いところから、1人3籠のみ、1家族5籠のみ、午前中のみ自由採取可等、様々なルールです。 木の実の採集に関するルールや、捕獲した獲物の分配方法等々、色々なことにルールを通って守ってきました。 これに違反すると、村八分といって、葬式の世話と火事の消火活動以外は、共同作業に参加視させてもらえないという仕組みです。結婚や成人式のお祝い、出産、病気の世話、災害時の世話、新築の手伝い、お葬式に法要、旅行などには参加させてもらえない仕組みです。共同体の維持のための生活の知恵ですが、この村八分が、現在社会でも時々トラブルの原因になっています。 (余談)侍の登場 開墾したところを、泥棒から守る必要があります。また、利用範囲が隣のグループとぶつかることもあります。縄張りの維持が大きな課題になってきます。土地所有者は、貴族や宗教関係者で、都会に住んでいることが多いため、遠く離れた私有地にはガードマンが必要です。そのガードマンが、今で言う侍=武士なのです。日本の政治は、貴族社会から武家社会になるのですが、地方でガードマンをしつつ、マネージャーとして働いていたのですが、オーナーのやり方がむちゃくちゃだったので、仕事を放棄し奪って形です。侍とは、仕える人という意味だったのです。 (余談)土地の売買 江戸時代に、寛永20年(1643年)3月に田畠永代売買禁止令(田畑永代売買禁止令)が出されます。これは、17のカテゴリーから成り立つ土民仕置条々に記載されたもの。寛永の大飢饉を切っ掛けに、百姓の没落を防ぐために、食糧が確保できるように、税金がちゃんと払えるように、土地の売買を禁止したのです。。 実際は、借金の形に取り上げられるなど、農地は流通されていたのですが、法令違反の訴えが無い場合は、黙認状態でした。明治5年(1872年)2月15日の太政官布告第50号により、土地売買が解禁されます。24日には、売買や譲渡された土地を証明するための地券が発行されます。ここで、私有権が認められることになりました。地券の発行は、最初はこの様に売買や譲渡が対象でしたが、7月には、全ての私有地に地券が発行されたのです。 |
(3)技術者集団木地師 日本の森林は、農業の出来ない地形=山であったため、比較的開墾で荒れることはありませんでした。開墾後、台風や大雪、大雨等の気象災害で放置、二次林の回復、また開墾して失敗の繰り返しをしてはいましたが。一方、奥山は、ほとんど放置状態でした。道がなく、木を伐っても里に下ろす技術がありませんでした。このため、修行僧が修行のために山に入ることはありますが、猟師以外は、ほとんど入りません。その一方で、標高の高いところでは、ブナなどの加工しやすい天然林が存在していました。 日本には、木地師と呼ばれる木工製品を作って歩いた技術者集団がいます。山の八合目以上を活躍の場とし、天然林を伐っては、お椀や匙、こけし等の道具や玩具など生活用品を作っては、里の人と金品と交換したりしていました。 日本は、居住地を持たず移動する集団がありました。基本は技術者で、酒造りの人、演劇集団、お笑い集団と、僻地にも足を運ぶなど色々な情報を伝達する文化の伝達者です。木地師集団も、一定の大きさになるまで木を伐らないルールを持っていました。ブナの木は、150年生以上でないと伐らない。それより小さい木は伐らないということです。巨木を切ることで、地表に空隙を生み、天然更新しやすい環境を作っていたのです。老齢過熟木を使っていたとも言えます。 |
(4)国有林の再登場 日本は、国土面積の2/3が森林となっています。このうち、国有林と民有林に分けられています。国有林は、国が管理する森林です。もともとは、1867年に武家政権であった徳川幕府から明治政府へ政権が変わりました。いわゆる明治維新です。 政権交代した2年後の1869年、江戸幕府や藩が直接管理していた土地は、版籍奉還に伴い、国有地になりました。これまで、400年近く天皇から預かっていた土地と領民を天皇に戻すという意味です。また、宗教の力が大きくなることを恐れ、寺社が持っていた森林、寺社有林も、取り上げました。 1873年に、これまでお米で納税をしていたのですが、現金で納税することにしました。地租改正です。これまでは、収穫量の一定割合を治めていたのですが、財源の安定化として、土地の価値に合わせて、現金を取るという方式に変わりました。どれだけの土地を持っているか、全国同じルールで測量していきました。この時、所有者が不明なところも国有林に組み込まれました。 |
(5)民有林の誕生 この地租改正で、土地に対する私的所有権が誕生したことになりました。このため、この時、国有林にならなかったところが、民有林となりました。ただし、民有林には、都道府県レベルの、都有林、府有林、道有林、県有林もしくは県営林、市町村レベルの、市有林、町有林、村有林、集落レベルの財産区有林という公有林と、会社や個人の私有林に分かれます。 このうち、公有林は、1906年頃から、都道府県の財政を支える目的で、国有林の権限と土地約78万ヘクタールを都道府県に委譲します。森林経営の模範になるところを中心に都道府県に売り渡したのです。都道府県は、ここから独自に森林経営を始めます。さらに、市町村の財政を支えるために、1920年から国有林の一部も市町村に渡しました。 ただし、トラブルもありました。地租改正まで、慣習的に、燃料としての薪や炭、肥料としての下草や落葉落枝、食料としての木の実や茸などを集落全員の森林として利用していた場所がありました。地租改正時に、税金を支払いたくないと考えた農民が多く、所有権を明らかにしなかったため、自動的に国有林に指定されました。しかし、村民は慣習的に利用しますが、国有林内での活動です。この結果、不法伐採、不法採取となるため、取り締まりする国家権力とぶつかるなど、激しい争いが、全国各地で発生します。困った政府は、そのような面倒な場所は、直接住民に管理と土地を譲り渡す形で、国有林から切り離したのです。これが財産区有林で、集落の維持に必要な資金の一部を、森林経営で産出した利益でまかなうことが行われました。今でも、小学校、中学校の経営を、林業の利益を中心に行っているところもあります。 私有林は、企業の場合、製紙会社が大面積の森林を所有しています。また、住宅メーカーで持っている森林もあります。一方、個人所有になると、約90万林家のうち、3ヘクタール未満が6割近く占め、50ヘクタール以上は1%弱となっています。 |
(6)森林の役割 このため、歴史的景観として守るべき森林や、人があまり行かない奥地などが国有林として残しました。その後、国有林は、第二次世界大戦中は軍需用材や薪、戦後は、復興用材の供給基地の役割を果たしました。ただし、第二次世界大戦後直後は、食糧増産として40万ヘクタールを農地として売り払いました。 1945年以降、伊勢湾台風など大水害が発生し、被害を受けて回復が困難な民有林を買い上げることも行っています。 今の日本は、家の側まで針葉樹であるスギやヒノキが植栽されています。しかし、1960年までは、薪や炭などの燃料や、田畑の肥料の供給源であったため、カシ類を中心とした広葉樹の森林でした。しかし、ガスや電気による燃料革命の結果、薪や炭の需要が減ったため、針葉樹に樹種転換した森林になっています。用材需要に応えるために、植栽された森林の結果です。 |
(7)国民の森林 国有林経営の現場において、国民の意見を取り入れながらの経営を行っています。地域管理経営計画を作成する際、地域懇談会等を通じて、これまでの計画に基づく取り組みや実績等を提示して、国民や市町村などの意見を積極的反映するようにしています。また、森林環境教育の場、文化的木造建築の修復に必要な木材を供給する場としても利用されています。 |
(8)国有地と民有地の境界 国有地と民有地の境界は、境界杭を基準とします。基本は、年に一度確認することになっています。 杭の大きさや材質ですが、石やコンクリート、金属など種類があります。なお、大部分はコンクリート表になっています。多くは、一辺が10センチ以上の四角で、長さが75センチ以上です。頂点に十時印を刻み、中心を表示します。一面に山という印を刻み、その背面に番号を刻みます。民地側に山を向け、4/5を地中に埋設します。これが基本ルールです。 下草が繁茂し、発見しにくいのが現状です。このため、確認のために場所を発見しやすいように、隣接する木にマークをしたり、見出し杭を設置し、頭部を赤く塗布します。もしくは、見出票を用意し、発見しやすくしています。 詳しい規定は、1951年(昭和26年)に規定された「国有林野の管理経営に関する法律」に基づいて実施しています。 巡視の際に、赤くマークしています。 |
(9)森林整備の取り組み ①森林法 森林法とは、宣言法として理念や政策方向を示す森林・林業基本法に対して、実体法として森林計画や保安林等の森林に関する手続規定や罰則規定などを定めた法律です。 本法律は、森林計画制度、保安林制度その他の森林に関する基本的事項を定めて、森林の保続的培養と森林生産力の増進を図り、もって国土の保全と国民経済の発展に資することを目的とするものである。 a 森林計画制度 日本の森林計画制度は、国・都道府県・市町村の各段階において森林・林業に関する長期的・総合的な政策の方向・目標を定めるとともに、森林所有者等の行う森林施業の指針を明らかにするものである。 b 保安林制度 森林の有する水源涵養、災害の防止、環境の保全・形成、保健休養の場の提供等の公益的機能に着目し、特定の森林を保安林として、農林水産大臣または、都道府県知事が指定し、一定の制限を課すことに衣より、その保全を図り、森林の公益的機能を確保しようとする制度である。 ②林業基本法 林業の発展と林業従事者の地位向上を図り、併せて森林資源の確保及び国土の保全を図るため、林業に関する政策の目標を明らかにし、その目標達成に資するための基本的な施策を示すことを目的として、昭和39年(1964年)に公布された。 政策目標は、林産物生産の増大、林業の生産性の向上による林業の安定的な発展を図り、併せて林業従事者の所得を増大してその経済的、社会的地位の向上に資することにある。 a 政策目標 昭和39年に制定された林業基本法では、 関連法律一覧 |
分収林制度 分収林制度とは、林業経営意欲や技術力の高い者が、他人の土地において森林を造成または、育成することを目的とする制度 具体的には、①土地の所有者、②造林または育林を行う者、③造林または育林に要する費用を負担する者の三者が、森林の造成または育林に関する契約を締結し、立木を共有するとともに、立木を共有するとともに、伐採により得られた利益をこれらの者で分収する。 分収の割割は、契約当事者で決定されるが、①土地の所有者が2~4割、②費用を負担する者が5~7割、③造林を行う者が1割であることが多い。 民有林においては、林業経営意欲や技術力の低い森林所有者に代わって、都道府県や公社等の公的主体が実施するものが多く、国有林においては、地域の林業振興のための方策として実施 |