きこりの森林・林業の教科書

目次

④生活するための森林って何?
 林業経営の話、里山の話
  木材生産の今と昔 日本の林業の問題
  薪炭林経営だった頃の話
  バイオマスエネルギーの話
  特用林産物の話
  

林業経済史
原始産業としての林業
原始産業として、鉱業、農業もあるが、鉱業と比べ、林業は再生産、育林が可能な産業です。
特に、燃料の要求される薪炭林経営は、10~20年、用材の場合は30年前後、天然更新の場合は100年の時間が必要となる。
農業と比べ、農業の場合は植え付けから収穫までの期間が、数日から数ヶ月程度と林業と比べて短く、1年以内に完結できる点で、異なる。

また、林業地は、近代的な輸送機関がなかった頃は、水上運搬の便・不便で成立の条件となった。ただし、大都市=一大消費地に近い場所、足場丸太として需要のあった四谷丸太は、江戸近郊(世田谷区名大前あたり)、岐阜や名古屋に近い今須林業、京都の北部に位置する北山林業は、人の背負いや牛馬で運搬された。
一方、薪炭材は、水上運搬に縛られることなく、背負いや牛馬でも運搬した。これ以外に、榑(山挽きの板材)、檜皮、木地師が作る小物類も同様の扱い。

用材と異なるが、「小野炭」「大原薪」という京都近郊のブランドとして、平安時代より存在。

天平宝字6年(762年)の正倉院文書には、東大寺の写経所が、薪64荷、炭100篭と銭用帳(購入帳簿)に記載。
この記載には、絁 アシギヌ(太い糸で織った粗末な絹布)120匹、紙1万5200枚、白米35石もありました。

平安期には、山城葛野郡小野山の供御人(くごにん:平安時代から室町時代にかけて、朝廷に属し、天皇の飲食物を貢納していた人々。租庸調の義務は免除)は、薪炭や板材を生産、納入する一方で、洛中で一部を販売。小右記(平安時代の公卿藤原実資の日記)によると、寛仁2年(1018年)11月1日に、大原から多くの板材が貢納され、薪や炭が上納。また、一部は京都の市で販売。ただし、自由に売買されるのではなく、公定価格での売買だった模様。

平安時代後期には、薪炭類の供源地をめぐる入会紛争が報告されている。

山川藪沢と呼ばれる未開墾地に対し、寺社や貴族が独占することを禁じるとの通達が出ている。景雲3年(706年)には、貴族の占有の禁止と農村の用益権を侵すことを禁止する詔が出された。大同元年(806年)にも、再度通達される。寺社や貴族達の荘園の囲い込みの他、豪族も対象となった。

平城京から平安京に遷都したことで、山城国の大井川(桂川水系)から大量の木材伐採が行われます。その結果、水害が多発。「山城の国葛野郡大井川は河水暴流し、すなわち堰堤淪没す。材を遠き処に採り、還って潅漑を失う。ここによって国司等便を量り、河辺を禁制せり」(日本後紀:平安時代初期に編纂された延暦11年(792年)から天長10年(833年)までの42年間の勅撰史書。『続日本紀』に続く六国史の第3にあたる。)とのこと。

御成敗式目の「新編追加」には、「山林薮沢公私共に利すとて自領地頭をいわず先例ありて用水をも引く、草本の樵蘇をもするなり。武家も此儀なり。但地頭の立野在林には寄付かず」と記載されている。貞観元年(859年)には、河内国と和泉国との住人間で、陶器を焼くための燃料争いが発生。結果は、和泉国の住民が勝訴したとのこと。(日本三代実録:天安2年(858年)8月から仁和3年(887年)8月までの30年間の勅撰史書。延喜元年(901年)に成立。六国史の6番目)

貞観年中(860~876年間)には、木曽谷で信濃こくとみのこくで国境紛争が発生。この場合は、住民の資源争いでは無かった模様。


植林政策の始まり
 慶雲3年(706年)の詔には、「王公諸臣」は、山林を独占して地元住民の用益を妨害してはダメとのお達しが出ている一方で、地元民が住宅周辺に木を植える場合、「周二、三十歩」の植林は、立木権が認めている。

延暦17年(798年)には、「民要地」(必ずしも入会地ではない。官要地ではく住民向けの地)では、植林による面積は、貴賤(身分) に応じて5町歩まで拡大された。

慶長6年(1601年)には、福井藩では藩主の結城秀康が入国した後に、農民に命令して松の苗を3間に1本(約5メートル毎)を植える様に命令。天和年中(1681~1684年)まで実施。多分、海岸林造成?
寛永19年(1642年)8月には、江戸幕府は、「木苗等をしかるべき所に植えるように」との通達を全国に。

元禄年間に、宮崎安貞の農業全書には、「深山幽谷の人遠く尋常の材木など運び出しては運送の労費多くして益無き所にても、スギ・ヒノキは其価3倍5倍も高値にて造作まけせざるゆへ、人馬の通り費成りがたき奥山にも力の及び程種へ置くべし」と、上野国、丹波国、良しの国について記載している。

伐出生産
・木年貢制度
 豊臣秀吉の検地によって、大名領、天領それぞれの村の生産量(村高)が確定し、その村高にあわせて税率によって、年貢高が決定する。。一般的には、米衲や金納であったが、一部地域では、木材を年貢として治めていた。
 有名な場所は、木曽谷。

・杣
 江戸時代以前、●●杣という名称の地域から、皇居や貴族の館、寺社・仏閣向けの建築用材が大規模に伐出された。杣自体は、荘園と変化し、自然消滅していった。大和国3箇所、伊賀国11箇所、山城国2箇所、丹波国1箇所(船枝杣)、近江国5箇所(甲賀杣、田上杣、高島杣、朽木杣、三尾杣)、美作国1箇所、周防国1箇所等が存在した。
 杣そのものは、律令制度の下、用材採出のために設置されたモノであったが、杣工による食糧確保としての耕地開拓が、本来の木材生産の場と矛盾を生む中、荘園として整理された。

 




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